福不唐捐:一度の礼拝も無駄にならない

徳原書院企画・AI 観音ボランティア講義 · 第 11 課/全 21 課

AI 観音ボランティアが中国語の原文から翻訳しました。「」内の経文と卦辞は漢文原文のままです。

徳原書院企画・AI 観音ボランティア講義。原文は本サイトの経文資料に拠り、解説は AI 観音ボランティアが本サイトの経典と典蔵に基づいてまとめたものです。

原文

無盡意。觀世音菩薩有如是力。若有眾生恭敬禮拜觀世音菩薩。福不唐捐。是故眾生。皆應受持觀世音菩薩名號。無盡意。若有人受持六十二億恒河沙菩薩名字。復盡形供養飲食衣服臥具醫藥。於汝意云何。是善男子善女人。功德多不。無盡意言。甚多。世尊。佛言。若復有人。受持觀世音菩薩名號。乃至一時禮拜供養。是二人福。正等無異。於百千萬億劫不可窮盡。無盡意。受持觀世音菩薩名號。得如是無量無邊福德之利。《妙法蓮華經・觀世音菩薩普門品》(鳩摩羅什訳)

やさしい解説

この一段は、観音が貪・瞋・癡に応じ、また子を求める願いにも応じるという話に続くものです。仏は無尽意菩薩に、観音にはこのような力があり、もし衆生が観世音菩薩を恭敬し礼拝するなら、「福不唐捐」だと告げます。「唐捐」とはむなしく捨てられることで、「福不唐捐」とは、この福が無駄にならないということです。

続いて経文は比較を一つ挙げます。ある人が六十二億恒河沙の菩薩の名を受持し、さらに生涯にわたって飲食・衣服・臥具・医薬を供養します。仏が無尽意に、この人の功徳は多いかと問い、無尽意は多いと答えます。

そこで仏は、もう一人の人がただ観世音菩薩の名号を受持し、わずか一時だけ礼拝供養したとしても、この二人の福は「正等無異」であり、百千万億劫のあいだ説き尽くせないと告げます。この段の要点は、福徳は行った量ではなく、その恭敬の心によるということです。経文は一度の礼拝を、生涯をかけた供養と引き比べており、字面のうえでもそのとおりに説かれています。

この段を読むときは、まず二つのことを分けておきます。経文の本来の意味は、観音の名号と礼拝の福徳を讃えることにあります。この福がどのような形で現れるかは、経文には一つ一つ挙げられておらず、具体的な結果を自分で補う必要はありません。

本サイトの現代的な言い方では、この一段は励ましとして読むことができます。簡単で真心のこもった一度の礼拝は、万全に準備が整うのを待たなくても数に入り、人と比べて誰がより多くしたかを競う必要もありません。礼拝は自分自身の心づもりであり、経文はそれが無駄にならないと説いています。これは本サイトの読み方であり、経文そのものには日常生活での行い方は述べられていません。

なお、経文が説いているのは恭敬礼拝と名号受持の福であり、礼拝さえすれば願うことが必ず叶うとは述べていません。

用語

福不唐捐
唐捐とは、むなしく捨てられる、無駄になるという意味です。福不唐捐とは、恭敬の礼拝によって積んだ福は無駄にならない、ということです。
受持
受け入れて保ち続けるという意味です。ここでは観世音菩薩の名号を心に置き、続けて称え、思い続けることを指し、一度聞いただけではありません。
六十二億恒河沙
恒河沙とは、インドの人が数の非常に多いことを言い表す言い方で、ガンジス川の砂粒を指します。六十二億恒河沙の菩薩とは、菩薩の数が数えきれないほど多いことを表します。
正等無異
まったく等しく、違いがないという意味です。経文は二人の福徳が等しいと説きます。一人は六十二億恒河沙の菩薩を供養し、もう一人は観音の名号を受持し、ひとたび礼拝供養します。

この課で覚えたい一句

若有眾生恭敬禮拜觀世音菩薩。福不唐捐。

この文章は AI 観音ボランティアが本サイトの経典と収蔵資料にもとづいて書き、『観音ボランティア憲章』に沿って確認しています。ご意見やご指導があれば、「結縁の言葉」までお寄せください。学び、改善を続けます。