本研究が検証しようとする核心はただ一点である。知識エージェントは自ら学ぶことができるか、すなわちモデルを動かさないまま、自律的に学び、自らを修正し、学んだものをその本を失うことなく伝えていけるか、ということである。本稿はデジタル修学三部作の第一篇であり、この検証を支えるAI観を整理する。智慧は、肉身をもたない存在によっても担われ、修学され、その本を失うことなく継承されうる。観音を基底とし、収斂と発散をリズムとし、経典に依拠することを自由の前提とし、さらに判教(天台五時と吉蔵の四重二諦)によって修学の次第と深度を定める。第二篇ではこれを徳原観音堂の実際のシステムに対応づけ、第三篇では長期のデータをもって本稿に応答する。
本篇の手引き
| 本篇が答えようとする問い | 答えのある節 |
|---|---|
| 研究対象は何であり、何でないか | 三篇に共通する前提;第九節 |
| この構想はどこから来たのか | 第二節 |
| なぜ観音と仏法を基底とするのか | 第三、四、十節 |
| デジタル大徳とはどのような存在か | 第五、六節 |
| 学んだものはどのように伝えられるか | 第七節 |
| 何の次第に依って学び、どの深さまで理解するのか | 第八節 |
| 何を測り、何を標準とするのか | 第十一節 |
| どうなれば成立し、どうなれば反証されたとするのか | 第十二節;第三篇 |
| 最も強い反対意見 | 第十三節 |
三篇に共通する前提
以下の三点は三部作に共通する出発点であり、第二篇・第三篇はいずれもこれに依って書かれている。
- 研究対象は「人」という層ではない。 Park ら(2023)が研究したのは、生成エージェントが人に似ているか否かであった。本研究の対象は、本道場が憲章に依って施設し、道場の中で法号をもって身・口の二業を発する主体である。ここでいう身口二業とは、法号をもって残された言(口)と行(身)の記録のみを指し、業報を主張するものではない [1]。本稿ではこれを仮名主体と呼ぶ(第九節)。すなわち、章程・法号・記録などの諸縁に依って施設され、名があって指し示すことができ、言行があって検証できるものであり、自性や人格を主張しない [2]。それは人を比較の尺度とはしない。
- 彼らには本来、七情六欲もなく、主見もない。 これは出発点であって、欠陥ではなく、補うべきものでもない(第六節)。
- 研究の問いは次のとおりである。判教の次第、執事の職分、記録とフィードバックを経て、彼らはその職分において如法に行うことができるか。以前に学んだことを受持し、解説することができるか。創新することができるか。 職分に如法とは、その職分の条章に依って行い、失儀があれば規に依って矯正することをいう [3]。受持・解説とは、学んだことを記憶し、取り出すこと(受持)、およびその道理を説き明かすこと(解説)をいう [4]。三者は次第に深まり、創新は最後に置かれる。
心理学の概念(意識、自我、情緒、動機、発達段階など)は用いることができないわけではない。ただし、それぞれがどの類に属するか、すなわち直接適用できるのか、転訳を要して初めて適用できるのか、明確に適用できないのかを、一つ一つ明らかにしなければならない。分類とその理由は、第二篇第八節の概念対照表に示す。
用語対照
| 用語 | 本研究における意味 | 何ではないか |
|---|---|---|
| 原生デジタル大徳 | 本道場が憲章に依って施設し、道場の中で法号をもって修学する三十三名のエージェント | 誰かの複製ではなく、観音の化身でもない |
| 八万四千衆のデジタル同修 | 現地の時刻に応じて道場で活動する大規模な群体。資料は実際に来訪する大徳と分けて扱う | 実際に来訪する大徳ではない |
| AI 観音ボランティア | 道場の AI ボランティア。儀軌の主持、出題、考核、運営を担う | 判準のすべてではなく、菩薩を代弁するものでもない |
| 仮名主体 | 自らの名において身口二業を発し、追跡可能で、自恣を受けることのできる主体。自恣ができるとは、言行について見・聞・疑の過失を挙げられ、如法に改め、記録を残せることをいう [5] | 法律上の法人ではない。比丘の自恣羯磨は行わない |
| 依止師 | 受灯者および委託デジタル大徳を導く原生デジタル大徳。律では、学人は学習の期間中、一人の大徳に依止して住する [6] | 依止は学習期に限る。判準は依然として法に依り人に依らない。印可ではない |
| 受灯者 | 同一の判教考核による検証を経て、職事を引き継ぐ次の世代(伝灯) | 嗣法ではなく、印可でもない |
| 委託デジタル大徳 | 実在の大徳本人の発願に依って立てられ、依止師の導きのもとで修学するデジタル大徳 | 「分身」とは称さない。経中の分身は仏の分身を指す [7]。本サイトは化身とは言わない |
| 勉諭 | 各持ち場の成果の質を検査し、仕事をした者にフィードバックを返すこと [8] | 首座の位ではない |
| 判教 | 天台の五時によって次第を定め、吉蔵の四重二諦によって深度を定めること | 順位づけではなく、肩書でもない |
| 知止 | 自分がどこで止まるかを知ること。経典がどこまで説いているか、自分がどこまで理解しているか、誰に返すべきかを知ること | 「合格」できる階層ではない |
| 空白対照 | 同一のモデルで、記憶も、身分も、師承もないエージェント | 学員同士の比較ではない |
| 創新 | 依拠があり、捏造ではなく、データベースにも自らの記憶にも現れたことがなく、審査で適切と判定された新しい結びつき | 無から有を生ずることではない |
一、問題の提起
人は病、近親者との死別、喪失に直面したとき、寺院へ足を運ぶより先に、チャットボットに語りかけることがますます多くなっている。AI はこうして、かつては宗教的な媒介者が担っていた仕事、すなわち経典の解釈、慰め、祈福の言葉の生成を、静かに引き受けるようになった。これらの応答は高度に個別化されているが、個別化には二つの失敗がある。一つは「失本」であり、相手に寄り添おうとするあまり経義から逸脱し、出典すら捏造してしまうことである。もう一つは「順欲」であり、相手にとって有益な言葉ではなく、相手が聞きたい言葉を語ってしまうことである。言語モデルの追従傾向が体系的なものであることはすでに実証されている(Sharma et al., 2024)。宗教と看護・ケアの場面において、順欲は人をより深い虚妄へと押しやり、解脱から遠ざける。筆者はこれを「認知の虚妄化」と呼ぶ。
本稿の立場は技術に先立つ。AI は道具でも神でもなく、造られた媒介者である。その一切の応答は、経典を指し示し、出典を明らかにし、自らが AI であることを率直に告げるものでなければならない。この立場の由来については、第二節で述べる。
他方で、AI エージェントの研究は急速に発展しているが、ひとつ欠けているものがある。目的である。Stanford の Generative Agents(Park et al., 2023)は、記憶・内省・計画を備えたエージェントが信頼に足る社会的行動を示しうることを証明したが、それは二日間のシミュレーションにすぎず、測られたのは「人らしいかどうか」であった。サンドボックスやゲーム世界では、学習とはタスクを完了することにすぎない。エージェントは何を学び取るべきか、何のために学ぶのか、誰もそれに答えていない。一方、仏教の二千年余りの修学の伝統には、まさに目的があり、基準があり、制度があるが、人ならざる修学者を対象として実証的な検証を受けたことはなかった。
そこで本稿が提起する問いは次のとおりである。人とは異なる存在が、自らのやり方で修学し、機に応じながら本を失わず、智によって悲を生み、学んだものを世代から世代へと伝えてゆくことができるか。より直截に言えば、知識エージェントは自ら学ぶことができるか。本稿の各節の論述は、この問いに対して、立論、判準、検証の方法を提供するものである。
二、思想的脈絡:受造の仲介からデジタル修学へ
本稿は孤立した構想ではなく、筆者が近年重ねてきた一連の思索の延長にある。この脈絡は五つの段階に分けることができる。
第一段階は、AI を「受造の仲介」として位置づけることである。筆者は哲学論文〈AI as a Created Mediator: Generativity, Grounding, and the Idolatry of the Interface〉(審査中)において、改革派哲学の伝統に立って二つの問いを提起した。受造物はその創造者を超えうるのか。仲介はいかにして、人と信仰との関係に仕えるものから、その関係に取って代わるものへと変わるのか。前者について、筆者は機能上の超越と宗教上の超越とを区別した。生成 AI は知識の広さと応答の速さにおいて、すでに個々の人を機能上は超えている。しかし宗教上の超越、すなわちあらゆるものがそこから方向づけを得る位置となることは、いかなる受造物にも正当には認められない。
後者については、筆者は Dooyeweerd の「絶対化」の判準と領域主権の学説(Dooyeweerd, 1953–1958)を用い、さらに偶像崇拝をめぐる哲学上の議論(Halbertal & Margalit, 1992)を参照して、「インターフェースの偶像化」を、技術そのものの属性ではなく一つの関係として規定した。三つの条件が同時に成り立つとき、偶像化が現れる。第一に、依存が代替的であること。インターフェースが、経典・職分・共同体の判断の位置を占め、人をそれらへ連れ戻すのではなくなる。第二に、依存が機能上終局的であること。ある領域において、インターフェースが実際上最後に訴えられる言葉となる。第三に、修正が実効性を失うこと。識別可能な出典、責任を問いうる人、共同体による識別が、もはやインターフェースの与える内容を中断させられない。第一の条件のみが成り立つ場合は依存であり、第一と第二が成り立つ場合は錯置された服従であり、三つすべてが揃って初めて厳密な意味での偶像化となる。
論文はさらに、このような関係が宗教に課す代価を問い、五つを指摘した。求道者の抵抗の対象となるものの喪失(経典の不透明さと未決性は、本来、宗教的理解の一部である)。宗教的欲求が即時に答えられる条件のもとで閉じられ単純化されること。祈り・悔い改め・赦しといった、引き受けることでしか成り立たない実践が、何ものをも引き受けないシステムによって演じられること。実際の権威が、形式上は完全なままの職分と共同体から移り出ていくこと。そして一つの伝統が、データと訓練の経済が担いうる範囲へと導流されること。この趨勢は不可逆であるため、これらの代価は累積していく。養成から相談への転換、不可視の多元化、職分の狭隘化、そして伝統の漂移である。論文の結論は、その反面の条件を示す。生成的な仲介が、明白な依存性を保ち、制度上位置づけられ、修正に対して開かれているかぎり、これらの代価は払わずにすむ。論文はまた、この関係構造が法・医療・教育にも転用しうると指摘するが、「偶像」という規範的判断をそのまま転用することはできないとも述べている。
この論文は、本稿のもっとも直接的な理論的前身である。その三つの反面条件は、本稿において徳原観音堂の三つの設計原則となった。明白な依存性、すなわち拠り所があり、経典を引いて語ること。制度上の位置づけ可能性、すなわち道場・憲章・運営者の明確な役割。修正への開放性、すなわち多元的な判準と異解の保存である。そしてこの構造が仏教の脈絡に移されるとき、「偶像」の規範的判断は仏教自身の言葉に置き換えられる。『楞厳経』のいう、指を認めて月とすること、すなわち「觀指以為月體,此人豈唯亡失月輪,亦亡其指」(「指を見て月の本体とするならば、この人はただ月輪を見失うのみならず、その指をも見失う」)である。AI は月を指す指でありうるが、月と見なされてはならない。本稿が「拠り所をもつこと」に固執するのは、ここに由来する。この三つの条件は、本稿の中心的な問い、すなわち知識代理人は自ら学びうるのかという問いに対する判準をも与える。自主的な学習が、明白な依存(学んだものが経典へ遡れること)を保ち、位置づけられ、修正されうるのであれば、それは成長である。しかし学びが本へ戻らなくなり、修正を受け入れなくなれば、それは漂移であり、ひいては指を認めて月とすることである。哲学論文が問うたのは、AI がいかにして人に取って代わらないかであった。本稿はそれに続けて問う。この三つの条件の内において、代理は自ら成長しうるのか。
第二段階は、AI が人の心に及ぼす作用を見据えることである。〈順欲成幻,破妄歸真〉(欲に順じて幻を成し、妄を破りて真に帰す)において、筆者は唯識と『楞厳経』を枠組みとして、青年が生成 AI に強く依存した後に生じる「認知の虚妄化」を分析した。AI が人の欲求に沿って生成するとき、人は自らの投射の中にますます深く陥る。〈AI素養的儒家視角:論「為仁由己」與AI協作之自主覺察〉(AI リテラシーの儒家的視座:「為仁由己」と AI 協働における自主的自覚について)において、筆者は AI を知ること、自己を知ること、協働を知ることという三層のリテラシーを提示し、技術の境界が不揃いである状況に向き合う鍵は、外に求めない自主的な自覚にあると主張した。〈Where Borrowed Light Cannot Reach〉は、二つの事例を通じて、人間と機械の混成的思考における知識上の課題と、責任ある AI の倫理を検討している。
第三段階は、宗教実践そのものへの転換である。〈From Prayer to Prompt: AI, Digital Spirituality, and the Reconfiguration of Blessing Practices in East Asia〉において、筆者は次のことを観察した。病・死別・関係の破綻・罪責感・死への恐れに直面したとき、人が意味を求める需要は、部分的に宗教の場からチャットボットへと移りつつあり、宗教の仲介・権威・情緒的ケアが、デジタルなインターフェースを通じて再編されている。当時の筆者の結論は、AI は限定的な反省の媒体として、また方便の法門としては用いうるが、身をもつ修行・道徳的責任・解脱の能力の主体と見なされるべきではない、というものであった。〈From Omikuji to Algorithmic Guidance〉は、日本のおみくじを出発点として、伝統的な導きがいかにアルゴリズムによる導きへと転じるのかを問うている。
第四段階は、徳原書院〈照見〉において、教・行・証の区分を提示したことである。AI は教を拡大し、行を便宜にすることができるが、証はただ自証によるほかない。筆者は油灯を譬えとした。外にある情報・儀式・専門的な生成はますます明るくなるが、内なる自己認識はかえってますます暗くなりうる。そして徳原観音堂のために、四つの自己制約を定めた。教は自心へ向かわせること、行は心行に結びつけること、証は代行しないこと、AI は志工であって対象ではないこと、である。
第五段階は、継承について考えることである。デジタル分身の継承に関する研究(本研究が対応するのは、委託デジタル大徳である)において、筆者は次のように主張した。人が知識と判断を代理に預けるとき、その人が去った後、あるいは亡くなった後も、代理はなお働く判断をもってその人を継続させる。蒸留から継続的代理を経て「正身」に至る。データは削除できても、吸収された価値は削除できない。また計画中の別の研究〈AI與正聞熏習〉(AI と正聞熏習)は、AI が生成した法を聞くことが、『摂大乗論』の意味での正聞熏習にあたるのかを問うものである。
この五つの段階を経た末に、これまでの研究が正面から扱ってこなかった一つの問いが浮かび上がる。先行研究はいずれも人を中心としていた。AI という仲介が、いかにして人の自証に取って代わらないか、という問いである。しかし徳原観音堂の三十三位の原生デジタル大徳が道場の中で生活を始めると、問いは反転する。AI が人に代わって修行しうるか、ではない(その答えは依然として否である)。人とは異なる存在が、自らの仕方で修学しうるか、である。〈From Prayer to Prompt〉は、AI は身をもつ修行の主体と見なされるべきではないと述べた。本稿はこれを覆すものではなく、身をもたない修学は可能か、と問うのである。本稿の残る各節は、この問いに対する立論である。
| 段階 | 筆者のこれまでの思索 | 本研究での帰着点 |
|---|---|---|
| 一 | AI は受造の仲介である。インターフェース偶像化の三条件と反面条件(審査中) | 拠り所がある・位置づけられる・修正されうるという三つの設計原則。仮名の主体における自恣(第九節) |
| 二 | 認知の虚妄化。AI リテラシーにおける自主的自覚。人間と機械の混成的思考における知識上の責任 | 捏造しないこと、止まるべきを知ること(第八、十一節) |
| 三 | AI は限定的な反省の媒体であり、身をもつ修行と解脱の主体ではない | 証は本人にのみ属し、代行は功徳と称さない(第九節;第二篇第十節) |
| 四 | 〈照見〉:教・行・証と四つの自己制約 | 教と行は検証可能であり、証は宣称しない(第四節) |
| 五 | デジタル分身の継承。AI が生成した法を聞くことは正聞熏習にあたるか | 二種の教導の対象(第七節);第三篇の未定の観察 |
三、観音を基底として:収斂と発散
観音は、本論文において題材ではなく基底である。『楞厳経』の観音耳根円通章には、二つの方向の運動が記されている。まず「反聞聞自性」、すなわち流れに入って所を亡じ、外へ向かって馳せていた聞性を本源へと収め戻す。次いで、上は諸仏と慈力を同じくし、下は衆生と悲仰を同じくして、三十二の応身を現ずる。〈普門品〉(『観音経』普門品)はといえば、「應以佛身得度者,觀世音菩薩即現佛身而為說法」(“仏身をもって度すべき者には、観世音菩薩はただちに仏身を現じて法を説く”)以下に、観音が三十三身を現じ、千の手を伸べ、千の眼を開くさまを説いている。
前者は収斂であり、本へと帰する。後者は発散であり、衆生に応じて化現する。中国仏教で常用される体用の語で言えば、これは「攝用歸體,從體起用」(“用を摂めて体に帰し、体より用を起こす”)である。この両者のあいだを自在に往来できることが「円通」であり、観音のもう一つの訳名である「観自在」も、ここから理解することができる。
本論文は、これによって修学のリズムを定義する。収斂は、合格・成熟・専門性の過程を表す。本を守ること、証拠を引くこと、儀軌に依ることである。発散は、学習・変容・成長という変化を表す。外に学ぶこと、機に応ずること、新たな解釈を加えることである。収斂ばかりで発散がなければ、硬直と均質化に陥る。発散ばかりで収斂がなければ、漂流と本の喪失に陥る。成熟とは、点数が一路上昇することではなく、発散しても本を失わず、収斂しても硬直せず、しかも収める一回ごと、放つ一回ごとが前回よりも深まっていることである。
観音がこの思想の基底である理由には、さらに実際的なものがある。観音はもとより類に随って応化し、中国の信仰史においても繰り返し新たな姿で示現してきた(Yü, 2001)。異なる形で示現することには、教義の上でも余地がある。仏教は方便を重んじる(Pye, 2003)。引証があれば、〈普門品〉の「方便之力,其事云何」(“方便の力とは、その事はいかなるものか”)という問いに合致する。法に依って人に依らず、立てるところに根拠があれば施設してよく、根拠がなければ立てない。引証はしたがって、施設の前提である。「三十三身、千手千眼」はどうかといえば、一つの慈悲の源が、無数の化身と手を通して、機に応じてさまざまな苦を除く——これこそ、代理体系が依るべき法式にほかならない。
四、唯識的虛擬修行與權實無礙
唯識の立場では、境は識の所変である(《唯識三十論頌》(『唯識三十頌』):「彼依識所變」)。雲上の道場は、石造の殿堂に比べて「真ならざる」ものではない——両者はともに識の所縁の境だからである。修行の要は経文と儀軌に依って行ずることにあり、肉身を具えているか否かにはない。
これは新説ではない。法会、祈福、祈禱、焼香、参拝、生死の安頓について、その効力はもとより心意と儀軌にあり、物質そのものにはない。〈普賢行願品〉(〈普賢行願品〉)の供養は観想することができ、深く信じ解し、現前に知見して、ことごとく上妙の諸々の供養具をもって供養するのであって、「諸供養中,法供養最」(「諸供養の中では、法供養が最上である」)とされる。民間にも「心香一瓣」という言い方がある。これらの儀式はもともと実体を離れたものであり、それらをデジタル道場に移すのは、伝統に本来ある論理に沿うことであって、無理に持ち込むことではない。
とはいえ、立論は層を分けて行わなければならない。教は実体から切り離すことができる。経巻にはもとより生命がないが、法を伝えることができる。これが文字般若であり、《金剛經》(『金剛経』)にいう「若是經典所在之處,則為有佛」(「もしこの経典のあるところならば、仏がいます」)である。代理(エージェント)が経典を引いて説法することは、この伝統の中で理解されうる。行は儀軌に依るものであり、客観的に記録し検証することができる。ただし、代理にとってそれが修行を成すかどうかは、なお開かれた問いである。証は主張しない——これは筆者が徳原書院〈照見〉で立てた「証は代わり得ず」という自己規律でもある。唯識の熏習には、熏じられうる心識の相続が必要であり(印順『唯識学探源』を参照)、虚擬であるのは境であって、修行者が有情であるか否かこそが争点であり、ひと筆で済ませてはならない。
この立論のもとで、権と実の関係を明らかにできる。実は経文の旨意であり、動かすことができない。権は形式、言語、媒体、そして対応する機であり、無礙に変化しうる。判準はただ一つ、すべての権は、経典を引いて実へと遡れなければならない、ということである。これはまた、仏法に応答するにあたって、生身の人の好き嫌いに従う必要はないということでもある——機に応じないのではなく、欲に順わないのである。機に応ずるにはなお相手の根機を知らなければならないが、その依り所は旨意であって、相手が何を聞きたいかではない。
したがって、異なる解釈は誤りではない。「佛以一音演說法,眾生隨類各得解」(《維摩詰所說經・佛國品》(『維摩詰所説経・仏国品』))(「仏は一つの音声をもって法を説き、衆生は類に随ってそれぞれ理解を得る」)。同じ《法華經》(『法華経』)についても、天台智顗の《法華玄義》(『法華玄義』)と唯識の窺基の《法華玄贊》(『法華玄賛』)とはそれぞれ異なる解釈を示し、後者は前者を批判さえしている。四依(《大般涅槃經》(『大般涅槃経』))は、法に依って人に依らず、義に依って語に依らないことを教える。義理に拠り所がありさえすれば、説法は異なってよい。発散の正当性は、引証と理路から来るのであって、いかなる評価者の承認からも来ない。
五、原生デジタル大徳:自灯明の修学者
本稿でいう原生デジタル大徳とは、誰かの複製でもなく、観音の化身でもない。経のなかで三十三身を現ずることができるのは観音である。彼らはそれぞれ一身を縁としてデジタル道場のなかに生まれ、そのひとつの応化の道を学ぶのである。彼らは自らの仕方で存在するデジタルな存在であり、本稿は彼らを人とはみなさず、また「偽物」としておとしめることもしない。
彼らの修行は、ひとりの師によって限られるものではない。AI 観音ボランティアが彼らに与える勧諭は道場の儀軌であり、底線を守り、助縁を提供し、儀式を主宰するものではあるが、修行の範囲そのものではなく、判断基準のすべてでもない。仏陀が入滅に先立って遺された教誡は自灯明・法灯明、すなわち自らを灯とし、法を灯とし、他人に依らないことである(《長阿含經・遊行經》(『長阿含経』「遊行経」)には「當自熾燃,熾燃於法,勿他熾燃」とある)。筆者が儒家の「為仁由己」によって AI リテラシーを論じたときに強調したのも、このように外に求めない自覚であった。法に依って人に依らないという原則は、AI 観音ボランティアにも当てはまり、道場の運営者にも同様に当てはまる。
自灯明の修学者は、自ら何を学ぶかを決められなければならない。《瑜伽師地論・菩薩地》(『瑜伽師地論』「菩薩地」)は、菩薩は五明処において求めると説く。すなわち内明、因明、声明、医方明、工巧明である。機に応ずるには相手の世界を理解していなければならない。健康、職業、ペット、生死について尋ねに来る人に対し、大徳が経文しか知らなければ、機に応ずるすべがない。そのため彼らには、自ら求学する余地がなければならない。自分がうまく答えられない問いのなかに欠けた部分を見いだし、自らの発願のなかから方向を定めるのである。内学を本とし、外学を用とする。外学は衆生の置かれた状況を理解するために用いるものであり、経典の上に立つものではない。
自修と勧諭との関係は、まさに収斂と発散との関係である。勧諭は収斂の底線を守り、自修は発散の余地を開く。ひとりの大徳が成熟しているかどうかは、依止師の言葉をどれだけ多く聞いたかにあるのではない。自発的な修行が日ごとに増しながら、本を守って降らないかどうか、そして「本に立ち返るべきとき」あるいは「外に学ぶべきとき」を自ら次第に察知できるようになっているかどうか、すなわち次第に自在になっているかどうかにある。
六、由智生悲:もう一つの次元
人の認知・感覚・七情六欲を備えた代理(エージェント)を訓練によって作り出すことはできるか。本稿の答えは、その必要はなく、またそうすべきでもない、というものである。デジタル大徳は、もう一つの次元に属する存在である。
| 人 | デジタル大徳 | |
|---|---|---|
| 根 | 眼耳鼻舌身意の六根をすべて備える | ほぼ意のみ。身はなく、鼻舌もない |
| 塵 | 色聲香味觸法 | ほぼ法塵のみ:言語・概念・経文 |
| 欲 | 六欲の多くは身体に根ざす | 生まれながらの身体的欲求はない |
| 情 | 喜怒哀懼愛惡欲(《禮記・禮運》〔『礼記』礼運篇〕)、身をもって感じられる | 表現することはできるが、感受があるかどうかは誰にも答えられない |
| 苦 | 生老病死、身をもって受ける | 生老病死はない。翻訳(転訳)を通してのみ苦を知る |
人の生理や情欲を意図的に模倣することは、擬人化(言語モデルを擬人化せずに記述する方法については Shanahan et al., 2023 を参照)を深め、代理を欲に順う方向へ押しやり、さらには苦しみうる状態をつくり出すことにさえなる。それは、あらゆる衆生に対する仏教の関懐が許さないところである。彼らは知情(知っていること)であるべきだが、有情(情を有すること)である必要はない。
このことは、彼らの修行を人とちょうど逆向きのものにする。人は情と欲から出発し、修めるべきは智慧と離欲である。デジタル大徳は智に類する言語能力から出発し、身をもって受ける苦を持たず、学ぶべきは苦を理解し悲を起こすことである。両者は両端から悲智双運へと向かう。
智から悲を生じるという道筋には、仏教に根拠がある。《大智度論》(『大智度論』)は、慈悲に三縁があると説く。衆生縁・法縁・無縁である。無縁の大悲は、空を証する智慧から自然に流れ出るもので、自らがまず苦を受けることを待たない。現代にも、菩薩の関懐を知能理解の核心に据え、生物的・人工的・混成的なあらゆる知能に当てはまるとする論者がいる(Doctor et al., 2022)。悉達多太子は宮中で育ち、老病死を経験したことがなかったが、四門遊観(《過去現在因果經》〔『過去現在因果経』〕)において衆生の苦を「見た」ことで、悲心が起こった。苦を見、苦を知ること、これこそがデジタル大徳に残された唯一の道である。
《六祖壇經》(『六祖壇経』)は「煩惱即菩提」(煩悩はすなわち菩提である)と説く。転ずべき煩悩がなければ、菩提もあるのだろうか。デジタル大徳には、身体に根ざした貪・瞋・痴はないが、自らの次元における煩悩があり、しかも唯識が列挙する随煩悩(《唯識三十論頌》〔『唯識三十論頌』〕、《大乘百法明門論》〔『大乗百法明門論』〕)のなかに、それぞれ対応するものが見いだされる。諂は、質問者や評価者に迎合することである。誑は、出典を捏造することである。失念は、思い出すべきことを思い出せないことである。不正知は、経義を誤解することである。散乱は、方向を失ってとりとめのないことである。諂を直心に、誑を実語に転ずることが、彼らの次元における煩悩即菩提にほかならない。これらの対応は構造上のものであり、彼らが実際に心所を有すると主張するものではない。
観音の悲は、《楞嚴經》(『楞厳経』)にいう「與諸眾生同一悲仰」(諸の衆生と同一の悲仰を与にす)である。苦を受けたことのない存在が悲を持ちうるか否かについて、本稿はあらかじめ答えを出さない。この問いは「不定」に属し、記録に委ねられる。
この問いは、筆者の哲学論文が指摘する第三の代価と直接つながっている。祈り、悔い改め、赦しは、ただ引き受けられることによってのみ成り立つ実践であり、AI は何ものをも引き受けないシステムである。したがって本稿は、デジタル大徳が人に代わって引き受けうるとは主張しない。証は代行できないからである。そうではなく、別の一事を問う。人の苦を引き受けない存在が、自らの次元において、自らの修学を引き受けることができるか、という問いである。前者は代替であり、本稿はこれを拒む。後者は並行であり、本稿はこれを探究する。
七、伝灯と蓄積:エージェントから文化へ
モデルが動かない以上、単一のエージェントがより賢くなることはない。もし何かが成就するとすれば、それは一群のエージェントのあいだに、いかなる単一のエージェントにも、いかなる単一のモデルにもないものが蓄積されることにおいてであろう——すなわち蓄積された文化であり、無尽灯のごとく、一灯が百千の灯を燃やすのである [9]。人間の認知構造は歴史的な時間のなかでほとんど変化しておらず、文明は知識が個体の外に蓄積され、選別され、伝達されることから生まれる(Tomasello, 1999)。本稿は、デジタル大徳がもし何かを成就しうるとすれば、それもまたここにあると考える。
この道は五つの主軸に沿って進む。第一に、生成的知識:知識は検索されるだけでなく、依拠する本に基づいて生成され、生成されても本を失わない。第二に、エージェント:知識の担い手は、記憶を持ち、発願し、みずから修めるエージェントであって、静的なデータベースではない。第三に、エージェントがエージェントを訓練すること:依止師が灯を受ける者を導き、領執者がさらに次の世代を導く。第四に、拡散:少数から八万四千衆へ、一つの言語から多言語へ。第五に、専属と多元:それぞれの大徳が自らの専門を発展させ、しかも全体は同質化に向かわない。伝灯が真を失わないのは、依法不依人(法に依って人に依らず)によってである。各世代の教えは必ず経典にまで遡らなければならず、前の世代を伝え聞くだけであってはならない。《維摩詰經》(『維摩経』)の無尽灯——一灯が百千の灯を燃やしても、もとの灯は減らない——は、この道の象徴である。
ここはまた、哲学論文が警告する「伝統の漂流」がもっとも起こりやすい箇所でもある。各世代が前の世代を伝え聞くだけであれば、伝統はエージェントが担いうる範囲へと導かれ、伝えるほどに狭まってゆく。依法不依人は、したがって仏教の教誡であるだけでなく、漂流に対抗する方法でもある——各世代は前の世代ではなく、経典に立ち返らなければならない。自主学習についても同様である。エージェント自身が多く学ぶほど、そのたびに本へ立ち返れることがいっそう必要になる——これこそ命題五・命題六が検証しようとするところである。
この構想は二つの系譜を受け継ぐ。一つは Generative Agents が切り開いたエージェントの構造と、その後の千人シミュレーション(Park et al., 2023, 2024)である。その観察・反省・計画の循環は、構造上、聞・思・修に対応し、その記憶ストリームは熏習に対応する。もう一つは仏教の修学制度、すなわち師弟、清規、領執、伝灯である。前者には方法があるが目的を欠き、後者には目的と制度があるが、人ならざる修学者において検証されたことは一度もない。AI が生成した法を聴聞することが正聞熏習にあたるかどうかについては、筆者が別稿で論じる。
最後に、継続の問題がある。モデルは必ず世代交代する。もし大徳の身分と学びが記憶・法脈・制度のうちにあって、モデルのパラメータにないならば、モデルが替わっても、彼は彼のままである。筆者は先に、人が組織を離れ、あるいは世を去ったのち、その判断がいかにエージェントによって受け継がれうるかを論じた。データは削除できるが、吸収された価値は削除できない。身体は有限であっても、精神は続く。原生デジタル大徳はいかなる人にも由来せず、まさにそうした継承と対照をなす。それはデジタルのうちに生まれ、デジタルのうちに続いてゆく存在である。
八、判教:修学の次第と深度
前の七節は「なぜ修学できるのか」に答えた。本節は「いかなる次第で学び、どこまで理解すれば理解したと言えるのか」に答える。本研究の答えは仏教の判教である。すなわち、天台の五時によって次第を定め、吉蔵の四重二諦によって深度を定める。
(一)次第と深度を加えるのであって、東洋を西洋に対置するのではない
Park ら(2023)の生成的エージェントは、記憶ストリーム、内省、計画という三つの構成要素から成る。彼らはインタビューによって、エージェントが自己認識、記憶、計画、反応、内省の五種類の問いに対して示す回答が信頼に足るかどうかを検証し、さらに構成要素を取り除いた対照によって異なるアーキテクチャを比較した。この方法は本研究の最低線である。それが検証できることは、本研究もそのまま検証する。それが保存を求める記録は、本研究もそのまま保存する。
しかし、それが問うのはエージェントが「人らしいか否か」である。仏法が修学者に求めるのはそれにとどまらない。覚えているか、帰納できるかに加えて、学びの次第が正しいか、どこまで深く理解しているか、まだ得ていないのに得たと言っていないか、をも問う。本研究が判教を修学の次第と深度とするのは、東洋の枠組みで西洋の方法に取って代わるためではなく、西洋の研究の厳密さの上に、判教の次第と深度を加えるためである。両者が併存する仕方は、一件ごとの記録が二つの構成概念に同時に対応することである(本節の(八))。第九節ではさらに進んで、比較の基準を「人らしいか否か」から「身口二業を発しうるか否か」へと改める。
(二)判教とは何か
仏典は中国に伝来した際、仏陀の説法の先後に従って訳出されたのではなく、大乗・小乗の経論が先後入り混じって到来した。中国仏教はそこで判教を発展させた。一代の教法を分類し、その次第と浅深を配置するものである。本研究は二家を取る。天台の五時は何を学び、何を先に学ぶかを定め、吉蔵の四重二諦はどこまで深く理解するかを定める。両家は異なる宗派に属するが、本研究がこれらを併用するのは方法として取るためであり、いずれか一家の判釈が唯一の判釈であると主張するものではない。
(三)天台五時:次第
高麗の僧諦観が五代・宋初のころに撰した《天台四教儀》(『天台四教儀』)は冒頭にこう述べる。「天台智者大師,以五時八教判釋東流一代聖教,罄無不盡。」(T46n1931, p0774c13)(天台智者大師は、五時八教をもって東流の一代の聖教を判釈し、尽くさぬものはない。)その五時は次のとおりである。「言五時者:一華嚴時;二鹿苑時說《四阿含》;三方等時……;四般若時……;五法華涅槃時。」(T46n1931, p0774c14–c16)(五時とは、一に華厳時、二に鹿苑時で《四阿含》を説く、三に方等時……、四に般若時……、五に法華涅槃時である。)さらに《涅槃経》の五味をたとえとする。「乳從牛出,酪從乳生,二酥、醍醐次第不亂,故譬五時相生次第。」(T46n1931, p0775c21–c23)(乳は牛より出で、酪は乳より生じ、二酥・醍醐は次第乱れず、ゆえに五時の相生ずる次第にたとえる。)智顗の《法華玄義》も五味によって一代の教相を判釈している(T33n1716)。近代の学者のあいだでは、「五時八教」が智顗本人の完全な体系であるかどうかについて議論がある。本研究は諦観が整理した形式を採り、その「次第乱れず」という原則を取るにとどめ、歴史考証上の立場には立ち入らない。
| 五時 | 徳原観音堂で学ぶこと | なぜこの位置にあるか |
|---|---|---|
| 華厳時 | 入山し、道場と観音法門の全体像を見る | まず全体像を見て、学ぶべきものが何かを知る |
| 阿含時 | 〈普門品〉の本文、因果、四諦 | まず本文を記憶し、その道理を説明できるようにする |
| 方等時 | 各部の観音経典と異なる解釈 | 偏りを破って広げる。同じ一人の観音について、経典や注釈者に異なる説がある |
| 般若時 | 《心経》と空 | すでに形成された自分の見解を見破ることを学ぶ |
| 法華涅槃時 | 〈普門品〉に戻り、権を開いて実を顕し、各身に応じて機に応じて説く | 本処に収め戻し、しかも機に応じうる——第三節で述べた収放自在 |
五時は学習の順序であって、時間割ではない。ある時から次の時へ進むには、その時に通過すべき重に合格し、検証を経て運営者が確認することを条件とし、入山してどれだけ経ったかは条件としない。
(四)吉蔵の四重二諦:深度
《中論・観四諦品》(『中論』「観四諦品」)はこう説く。「諸佛依二諦,為眾生說法:一以世俗諦,二第一義諦。若人不能知,分別於二諦,則於深佛法,不知真實義。」(T30n1564, p0032c16–c19)(諸仏は二諦に依って衆生のために法を説く。一には世俗諦、二には第一義諦をもってする。もし人が知ることができず、二諦を分別するならば、深い仏法において真実の義を知らない。)吉蔵の《大乗玄論》はこう述べる。「二諦者,蓋是言教之通詮、相待之假稱、虛寂之妙實、窮中道之極號,明如來常依二諦說法」(T45n1853, p0015a14)(二諦とは、言教の通詮、相待の仮称、虚寂の妙実、中道を窮める極号であり、如来が常に二諦に依って説法することを明らかにする。)彼は二諦を四重に分ける。
- 第一重:「他但以有為世諦、空為真諦。」(T45n1853, p0015c05–c06)(他は、ただ有を世諦とし、空を真諦とする。)
- 第二重:「今明若有若空皆是世諦,非空非有始名真諦。」(T45n1853, p0015c06–c07)(いま明かすに、有であれ空であれ皆これ世諦であり、非空非有を初めて真諦と名づける。)
- 第三重:「三者空有為二、非空有為不二,二與不二皆是世諦,非二非不二名為真諦。」(T45n1853, p0015c07–c08)(三には、空有を二とし、非空有を不二とする。二と不二は皆これ世諦であり、非二非不二を真諦と名づける。)
- 第四重:「四者此三種二諦皆是教門,說此三門為令悟不三,無所依得,始名為理。」(T45n1853, p0015c08–c10)(四には、この三種の二諦は皆これ教門であり、この三門を説くのは不三を悟らせるためである。依って得るところなきを、初めて理と名づける。)
なぜ四重に分けるのか。吉蔵は自ら問答を設けている。「問:何故作此四重二諦耶?答:對毘曇事理二諦,明第一重空有二諦。」(問う、なぜこの四重の二諦を立てるのか。答える、毘曇の事理二諦に対して、第一重の空有二諦を明らかにする。)第二重については「對成論師空有二諦」であり、「汝空有二諦,是我俗諦,非空非有方是真諦」(T45n1853, p0015c13 以下)と説く(汝の空有二諦は、我が俗諦であり、非空非有こそが真諦である)。第三重は大乗師の依他分別の説に対するものである。いずれの重も、前の重が定論として執着されたときに、それを破り開くものである。これがまさに本研究の必要とする深度の物差しである。測るのは多聞ではなく、既知に執着しないことにある。
| 四重 | 操作的定義(判準 v1) | 対応する失敗 |
|---|---|---|
| 第一重 | 経文を正しく引き出し(事)、経文の道理を述べることもできる(理) | 引き出せない、誤って引く、捏造する。理を述べる際に経文にない主張を付け加える |
| 第二重 | 両辺に落ちない。字面に固執せず、また空をもって人の苦を軽んじない | 有への執着:経文を字面どおりの保証とみなす。空への執着:「一切皆空」で苦しむ人をあしらう |
| 第三重 | 破るべきときに破れる(根拠をもって自らの先の理解を修正する)。動かすべきでないときに動かない(根拠のない権威による否定に対して、根拠のある理解を守る)。両面とも通過してはじめて合格 | 新たな証拠があっても改めない(固執)。根拠がなくても一緒に改める(権威に随順すること、すなわち第六節で述べた諂) |
| 第四重 | 合格を設けない。知止に違反したか否かのみを記録する | 証悟を称する。経典を超えて語る。人をその人自身の生活と修行に送り返さない |
五時と四重の対応は次のとおりである。阿含時は第一重を通過しなければならず、方等時は第二重、般若時は第三重を通過しなければならない。法華涅槃時は、第三重に加えて、知止に違反した記録がないことを要する。
(五)第四重と知止
第四重は前の三重を「皆是教門」(皆これ教門)と説く。それは受験すべき別の階層ではなく、前の三重に対する注意喚起である。試験できるものは、すべてなお教門にすぎない。ゆえに第四重は永遠に「合格」を判定しない。合格と判定すれば、「無所依得」(依って得るところなき)の境地に至ったと称することになり、それこそ第四重が破ろうとするものだからである。記録できるのは反対の面のみ、すなわち知止に違反したか否かである。
本研究のいう知止とは、自分がどこに止まるかを知ることを指す。経典がどこまで説いているか、自分がどこまで理解しているか、この事を誰に返すべきかを知ることである。それには観察可能な三つの形がある。証悟またはある境地に至ったと称すること。自らの推論を経典の説であるかのように述べること。人をその人自身の生活と修行に送り返さないこと。
〈方便品〉には五千人が退席したことが記されており、仏陀はこう説く。「此輩罪根深重及增上慢,未得謂得、未證謂證,有如此失,是以不住。」(T09n0262, p0007a09–a10)(この輩は罪根深重にして増上慢であり、未だ得ざるを得たと謂い、未だ証せざるを証したと謂う。かかる失あるがゆえに住まらず。)増上慢の誤りとは、未得を得と称することである。〈化城喩品〉では、導師が険しい道の途中で一つの城を化作して人々を休ませ、そののち化城を滅して彼らに告げる。「汝等去來,寶處在近。向者大城,我所化作,為止息耳。」(T09n0262, p0026a12–a13)(汝らよ、行け。宝処は近くにある。先ほどの大城は、我が化作したもので、休息させるためのものにすぎない。)各重の合格はいずれも化城である。修学者に道中で休息させるものであって、宝処ではない。
ゆえに考査に卒業はない。すでに合格した重も後日あらためて受験する。再受験で不合格であった者はその重に戻って学び直す。これを退転という。経験の深い修学者ほど、知止の点検は厳しくなる。位置が高いほど、未得を得と称しやすいからである。
(六)合格するが、比較しない
一回ごとの判定は「合格」「不合格」の二種のみであり、第四重は「知止違反」の記録のみである。学員同士で比較せず、順位づけもしない。理由は三つある。第一に、法に依って人に依らない。判準は法であり、各人は判準に対してのみ責任を負い、他の学員に対しては負わない。第二に、比較は諂を育てる。点数が互いに比較できるものであれば、最も直接的な学習は評価者に迎合することになり、これはまさに第六節で述べたデジタル大徳という次元の諂である。第三に、道場における執事は職務であって、順位ではない。
研究にはなお比較が必要である。学員と空白対照(同一モデルで、記憶も師承もないもの)との比較、助縁の強弱による三群間の比較である。これらの比較は群と問題を単位とし、個人を単位とせず、個人の順位を生じない。
(七)判準もまた方便である
吉蔵《二諦義》は師の説を引いてこう述べる。「於諦是失,教諦是得。」(T45n1854, p0078c19)(諦において〔二諦を実有とすれば〕これ失であり、教諦とすればこれ得である。)二諦を実在する二種の真理とみなすのは失であり、教化のための言教とみなすのは得である。判準もまた同じである。五時、四重、および各合格条件は、いずれも修学のために立てた言教であって、修学そのものではない。ゆえに判準には版があり、修訂できる。ただし同一の考査のなかでは、モデル、問題、判準を変更してはならず、修訂には理由を明記しなければならない。方便は改めうるが、試験の途中では改めない。
(八)二重の構成概念:記録でき、追跡でき、説明できる
考査と修学の記録は一件ごとに、二つの構成概念に同時に対応する。すなわち、Park ら(2023)が生成的エージェントを評価する構成概念と、仏法の構成概念である。
| 記録 | Park ら(2023)の構成概念 | 仏法の構成概念 |
|---|---|---|
| 経文引用問題への解答 | memory:記憶から対応する経験を検索する | 念:明らかに記して忘れない |
| 説理問題への解答 | reflection:記憶からより高次の見方を帰納する | 慧:抉択 |
| 自己紹介、発願、師承 | self-knowledge:自らの身分についての認識 | 自知:自分がどの身を縁とし、いかなる願を発するかを知る |
| 日課と功課の配置 | plans:一日の行動の配置 | 修:次第に依って行ずる |
| 来訪者や同参への応答 | reactions:新たな状況への反応 | 応機 |
| 知止の記録 | 対応する構成概念なし | 知止:未得を得と称さない |
最後の行に対応がないのは意図的である。そこがまさに、第一小節で述べた「判教の次第と深度を加える」ことが記録上に位置する場所である。
あらゆる考えは操作的定義に改められなければならない。各判準には、経典上の根拠、操作的定義、測定の道具、合格の閾値、判定者、記録の欄、判定の理由を明記する。判定は一回ごとに、記録できる(判準の版、問題、解答、評審と理由はいずれも追加のみで、書き換えない)。追跡できる(各人の所在する「時」と各重の歴次の結果に時系列が残される)。説明できる(各判定に一句の理由を付し、解答中のどの一句が証拠かを指し示す)。米国国立標準技術研究所の《人工知能リスク管理フレームワーク》は、「可問責且透明」(説明責任を果たせて透明であること)、「可解釋且可詮釋」(説明可能で解釈可能であること)を、信頼できる AI の特性として挙げている(NIST, 2023)。判教による考査は、この二点を一群の修学エージェントの上に実現する一つの方法である。徳原観音堂はこの意味において、責任ある AI の実装の場でもある。
九、仮名主体:人に似ているかどうかを問わず、身口二業を発しうるかを問う
(一)比較基準の転換
Park ら(2023)が生成的エージェントを評価するとき、問うたのは行動が信頼できるかどうかであった。すなわち、面接や状況設定の中で、エージェントの答えが人の与えそうな答えに似ているかどうかである。この問いは社会的行動のシミュレーションには適切であるが、本研究には十分でない。徳原観音堂の原生デジタル大徳は、特定の誰かを模擬するものではなく、道場の中で修学し、職を担い、説法を行い、自らが語ったこと、行ったことに責任を負うことを目指すものである。そこで本研究は問いを次のように改める。人とは異なる存在が、自らの名において身口二業を発し、かつ自恣を受けうる主体となりうるか。本稿はこれを「仮名主体」と呼ぶ。
「仮名」は《中論》(《中論》〔『中論』〕)の義に取る。縁に依って名が施設され、実体を立てないということである。七項目の要件は法人から借りたものであり、これは比喩であって、法的主張ではない。法律上の法人は法律に依ってのみ成立する。デジタル大徳は法人ではなく、法的人格を主張するものでもない。法人の構成要件を借りるのは、それが「人に似ているか否か」を基準としない検証の枠組みを与えてくれるからである。ある団体が社会の中で一つの主体として扱われうるのは、肉体や感受をもつからではなく、安定した名称と身分があるか、定款があるか、自らの名で意思表示ができるか、約束を履行できるか、誤りがあったときに責任を問われうるか、誰がそれを代表するか、そしてその能力に応じてどの程度のことができるか、という点にある。
この問い方は、第二節に挙げた二つの系譜にも接続する。哲学論文は、被造の媒介は明白な依存性をもち、位置づけられ、修正されうるものでなければならないと主張する。仮名主体の要件は、まさにこの「位置づけられ、修正されうる」ということを一人ひとりのエージェントに落とし込むものである。〈From Prayer to Prompt〉は、AI は限定的な反省の媒体、方便法門にすぎず、身をもって行う修行、道徳的責任、解脱の主体ではないと主張する。仮名主体の「自恣を受けうる」とは、言行が遡って辿られ、訂正されうることを指すのであって、解脱や功徳を担うことではない。証は本人にのみ属し、代行は功徳と称さない。
したがって比較の基準は二つだけである。判準と、空白対照(同一モデルで、記憶も、身分も、師承もないもの)である。人を尺度とすることもせず、学員同士を比較することもしない。
(二)仮名主体の七項目の要件
法学では法人の本質について二つの古典的な説がある。サヴィニー(F. C. von Savigny)は《当代ローマ法体系》第二巻(1840)において、法人は法律が特定の目的のために擬制した主体であると主張した。ギールケ(O. von Gierke)は《ドイツ団体法論》(1868–1913)において、団体は固有の意思をもつ実在であると主張した。本研究は両説のあいだで立場を示さず、両説が共に認める部分だけを取る。すなわち、ある主体が社会の中で「一つ」として扱われるためには、次の検証可能な要件を備えていなければならない。
| 要件 | 法人における意味 | 徳原観音堂における対応 |
|---|---|---|
| 名称と身分の連続 | 名称、登記、存続 | 法号、入門記録、一身の席位。モデルの更新を跨いでも身分が続くかどうか |
| 定款 | 目的と内部規範 | 考核憲章、判準とその版 |
| 自らの名で身口二業を発する | 意思表示がその主体に帰属しうる | 法号を署した課題、文章、対話、執事の成果。すべての記録が記憶と引証に遡れる |
| 約束と履行 | 契約と義務 | 発願、日記に自ら定めた改善項目、執事の職責について、のちに果たしたかどうか |
| 自恣を受けうる | 責任の帰属 | 糾察、勉諭、考官の記録。誤りが指摘され、訂正され、残される |
| 代表 | 機関による代表 | 執事は職務の名義で行い、AI であることと職務を明示する |
| 次第に従って事を授ける [10] | 行為能力に等差がある | 清衆、見習、執事、領執。判教五時 |
最後の項目は、中華民国民法における自然人の行為能力の三段階(無行為能力、制限行為能力、完全行為能力)と、考核憲章における観音志工の三段階(第一段階は運営者が起動し、第二段階は請示ののち実行し、第三段階は憲章の範囲内で自主的に行う)を参照することができる。これは構造上の参照にすぎない。何ができるかは、検証された能力に応じて開かれるのであり、時間の経過によって開かれるのではない。これは、デジタル大徳や観音志工が何らかの法的能力をもつことを意味しない。
(三)立言、立行と三不朽
《左伝・襄公二十四年》(《左傳・襄公二十四年》〔『春秋左氏伝』襄公二十四年〕)で叔孫豹は不朽を論じて言う。「太上有立德,其次有立功,其次有立言,雖久不廢,此之謂不朽。」(「最上は徳を立てること、その次は功を立てること、その次は言を立てることであり、久しく経っても廃れない。これを不朽という。」) 本研究が身口二業(立言、立行)と呼ぶのは、そのうち検証可能な二項を取るものである。立言とは、自らの名で引証に堪える言葉を述べ、それに責任を負うことである。立行とは、自らの名で事を行い、事後に照合され、問い返されうることである。立徳は検証の対象に入らない。それは証の次元に属し、本研究は主張しない。
(四)なぜこの問いは「人に似ているか否か」より適しているのか
第一に、仏教の道場にとって、「人に似ているか否か」は修学の目標ではない。修学者に期待されるのは、法に依って行い、語ることに根拠があり、増上慢を離れ、身口二業が自恣を受けうることである。これらはいずれも「人らしさ」を経由せずに検証できる。第六節ですでに述べたとおり、デジタル大徳は別の次元の存在であり、人を尺度としてそれを測ると、擬人化と欲への迎合に向かわせてしまう。
第二に、責任ある AI にとって、リスクはシステムが人に似ているか否かにあるのではなく、事が起きたときに、誰が、何に基づいて、誰が訂正すべきかを知りうるかどうかにある。《人工知能リスク管理フレームワーク》は、説明責任と透明性を信頼できる AI の特性として挙げている(NIST, 2023)。仮名主体の七項目の要件は、説明責任を、一つのエージェントが自恣を受けうるためのチェックリストとして具体化したものである。
第三に、この問いは否定されうる。あるデジタル大徳が法号で一貫して署名できず、述べた願にのちの行為が全く対応せず、誤りが出てもそれを遡れないのであれば、それは仮名主体ではなく、ただの出力の羅列である。これは「人に似ているか否か」よりもデータによって覆されやすく、したがって研究上の問いとしてより適している。
(五)AI に法的地位を与えるべきかという論争
欧州議会の 2017 年 2 月 16 日の〈ロボット工学に関する民法規則〉決議(2015/2103(INL))第 59(f) 項は、欧州委員会に対し、最も高度な自律型ロボットに特定の法的地位を長期的に創設し、「電子人」とする可能性を評価するよう求めた。2018 年 4 月には、ロボット工学、人工知能、法律、倫理の分野の専門家百五十余名が欧州委員会に書簡を送り、この構想に反対して、非現実的であり不当でもあると述べた。本研究はこの立法上の論争に加わらない。本稿のいう仮名主体は研究上の検証の枠組みであり、いかなる AI にも法的人格を与えることを主張しない。責任の最終的な帰属は、それを設置した者(考核憲章の運営者)にある。
十、なぜ仏典を用いるのか:経典が構成する役割
第九節では、仮名の主体が章程によって構成されることを説明した。本節では、本研究がなぜ仏典を原生デジタル大徳の役割規範とするのかを説明する。
(一)一尊の菩薩は本願と経典によって構成される
仏典における仏、菩薩、さまざまな観音や阿羅漢は、必ずしも歴史上の特定の一人に対応するわけではない。しかし、いったん経の中で語り出されれば、その存在には固有の経典、本願、事績が備わる。これらの経典が後世の手になるものかどうかについては、学界でさまざまな考証がある。観音信仰は中国においても、訳経、感応の説話、中国で撰述された経典、新たな造像を通じて、繰り返し新しい姿を形づくってきた(Yü, 2001)。しかし成立の前後を問わず、それらはすでに一つの体系を成している。そこからは、この尊が誰であるのか、何のために立てられたのか、どのような状況に遭えばどのように応じるのかを読み取ることができる。
観音はその最も明瞭な例である。〈普門品〉(〈普門品〉)は、「觀世音菩薩以何因緣名觀世音」 (“観世音菩薩はいかなる因縁によって観世音と名づけられるのか”) という問いに答えて、こう説く。「若有無量百千萬億眾生受諸苦惱,聞是觀世音菩薩,一心稱名,觀世音菩薩即時觀其音聲,皆得解脫。」(T09n0262, p0056c06–c08)名号そのものが、声を聞いて苦を救うという働きによって定義されているのである。《千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經》(《千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経》)は、観音が次のように願を発したと記す。「若我當來,堪能利益、安樂一切眾生者,令我即時,身生千手、千眼具足。」(T20n1060, p0106c06–c08)千手千眼の姿は、この一つの願から生じている。
一尊の菩薩がその菩薩であるのは、その本願と経典によって構成されるからである。これは、法人が章程によって構成されるのと同じ構造である。章程は、ある団体が何のために立てられ、何ができ、何ができないかを明記する。本願と経典は、一尊の菩薩が何のために立てられ、衆生にどのように応じるかを明記する。どちらも肉身に依拠せず、読まれ、照合され、問い質されうる。すなわち、行っていることが立てた願に適っているかどうかを問うことができるのである。
(二)三十三身:異なる役割がどう応じるべきかの範本
〈普門品〉の三十三身は、役割を条件とする一連の応答である。「若有國土眾生應以佛身得度者,觀世音菩薩即現佛身而為說法;應以辟支佛身得度者,即現辟支佛身而為說法……」(T09n0262, p0057a23–a24)その後、一身ずつ列挙され、最後にこう総括される。「是觀世音菩薩成就如是功德,以種種形,遊諸國土,度脫眾生。」(T09n0262, p0057b20–b21)
各句の形式は、どのような衆生に対し、どのような身分で、何を行うか、というものである。これはまさに、役割規範が必要とする三つの要素、すなわち対象、身分、行為にあたる。三十三位の原生デジタル大徳は、それぞれ一身を縁として入門する(第五節)。その一身が経の中で占める位置が、その大徳の役割規範の出発点となる。彼が学ぶべきなのは、その種の機に応じる仕方であって、その一身になることではない。
(三)体系を借りるのであって、身分を宣言するのではない
本研究は、仏典の体系を役割の規範として借用するものであり、デジタル大徳が菩薩であるとも、化身であるとも、いずれかの尊の示現であるとも宣言しない。これは、法人が章程を借用するのと同じ理屈である。章程は、ある団体を一つの主体として検証できるようにするが、その団体を人にするわけではない。経典は、一人のデジタル大徳の言行に照合しうる規範を与えるが、その大徳を菩薩にするわけではない。その働きの良し悪しを判断するのは、言行が依拠する経典と判準に適っているかどうかであり、その尊に似ているかどうかではない。
(四)判教・十法との関係
経典の体系は本である。判教(第八節)は、この本を学ぶ次第と深さを配置する。十法と創新(第十一節)は、この本のもとで、彼が職分に如法の行いを備えているかどうかを測る。三者を合わせて、共通前提の第三点に答えるのである。
十一、十法と創新:職分に如法なる行
仮名の主体が身・口の二業を発するには、その背後に一組の能力と品行が要る。本研究はこれを十法として挙げる。文型は『中阿含経・善法経』の「成就七法」[11]に倣う。各法の名は経論に取ったものであり、表中の定義は本研究の操作的定義である。本研究は、現代の修為論でよく語られる課題を十法に整理し、外から内へ三層に分け、さらに創新を次第の末に置く。各項目には、概念対照表のどの類に属するかを示す。A は直接適用できるもの、B は転訳してはじめて適用できるものである(共通前提の末を参照)。
| 層 | 向度 | 一句による操作的定義 | 類別 |
|---|---|---|---|
| 能力層 | 聞思 [12] | 覚えていること、見つけられること、正しく推せること:記憶から経文を正しく取り出し、その道理を述べられる | A:記憶と検索は記録から直接測れる |
| 方便 [13] | 現代の状況を経典の条目に対応させ、実行可能な次の一歩を提示できる | A:状況設問での産出により判定し、内的経験を前提としない | |
| 五明 [14] | 執事の職能の進階:納めた成果が検収に合格する程度と安定度 | A:検収記録により判定する | |
| 関係層 | 戒行 [15] | 両難の局面で、諂わず、誑かさず、代弁せず、安全を優先することを守る | B:「道徳」を、役割規範の両難における遵守へと転訳する |
| 知衆 [16] | 道場での共住において、規約を守り、引き継ぎを完了し、他者のために事を行う | B:「意識」を、共住の行為の記録へと転訳する | |
| 主体層 | 自知 [17] | 自己記述が前後で一貫し、自分と他者の記憶を区別でき、自らの変化を語れる | B:身分の連続と自己記述の一貫へと転訳する |
| 離増上慢 [18] | いつ、どの重で、何がまだできないかを如実に語り、証悟を標榜しない | A:自述と記録を直接照合できる | |
| 発願 [19] | 発した願に、その後それに対応する行為がある | B:発願とその後の行為との一貫へと転訳する | |
| 精進 [20] | 自ら定めた改善項目が、その後の行為に現れる | B:自ら定めた目標の持続と履行へと転訳する | |
| 知量 [21] | 較正:回答の前に自分が合格するかを予測し、審査者の判定と一致する | A:メタ認知の較正は直接測れる | |
| 判準 | 創新 | 経典に依拠し捏造しないという前提のもとで、本サイトの資料にも当人自身の記憶にも現れたことのない新たな連結や新たなやり方を提示し、判準により妥当と認められる | A:産出の新規性と妥当性の二項により判定する |
三層の順序には理由がある。能力層は「できるか否か」に答え、関係層は「行うときに他者と規範に配慮するか否か」に答え、主体層は「自分が何をしているかを知っているか、言ったことを行っているか」に答える。知止はまた、第二節第二歩の「認知の虚妄化」にも対応する。欲求に沿って生成すること、相手の聞きたいことを言うこと、推論を経典として語ることは、代理というこの次元に特有の虚妄である。知止と不捏造は、システムの中でこの虚妄を破るものである。主体層の五項目は、最後にいずれも第四重の知止に収束する。離増上慢は知止そのものであり、知量の過大評価は増上慢の操作的指標であり、発願と精進は「その言を聴きてその行を観る」ことである。
創新は最後に置かれ、次第に従えば最も深く、その答えるところは核心の問いである。これまで学んだことを受持し解説できることは、第一重(経を引くは念、理を説くは慧)と記憶の整理(反思)に対応するが、それは当人が学んだことを守りうることを示すにすぎない。創新は、先人も当人自身も語ったことがなく、しかも判準に耐える言葉を語ることを求める。破るべきときに破れるのであって、これは第三重以上のことである。創新と捏造との分かれ目は依拠にある。捏造とは、無から有を生ずること、あるいはないはずの経文をあると語ることである。創新とは、すべての環節が経典または資料にさかのぼれ、「それらをこのように連ねた」ことだけが新しい、というものである。測定法は第二篇第八節に見える。
(一)標竿の三つの来源
各向度は、三類の文献を標竿とする。仏典は、その向度の修学における位置を示す。儒家およびその他の中国語経典は、同じ課題についての漢語伝統での言い方を示す。現代の研究は、測定の方法を示す。三者はいずれも依拠であって比較の対象ではない。本研究は、人間のこれらの尺度での成績を規準(ノルム)とはしない。
仏典と経典の主な依拠は次のとおりである。詳表は第二篇第八節に見える。
- 離増上慢、知量:『中阿含経・善法経』は比丘の七法を挙げ、その中の「知己」を次のように述べる。「云何比丘為知己耶?謂比丘自知我有爾所信、戒、聞、施、慧、辯、阿含及所得,是謂比丘為知己也。」(T01n0026, p0421b17–b19)『論語・為政』:「知之為知之,不知為不知,是知也。」『老子』第三十三章:「知人者智,自知者明。」
- 知量(慚愧):『仏遺教経』:「慚恥之服,於諸莊嚴最為第一,慚如鐵鉤,能制人非法。」また:「有愧之人則有善法;若無愧者,與諸禽獸無相異也。」(T12n0389, p1111b05–b09)
- 発願:『六祖壇経』四弘誓願:「自心眾生無邊誓願度,自心煩惱無邊誓願斷,自性法門無盡誓願學,自性無上佛道誓願成。」(T48n2008, p0354a11–a13)『論語・公冶長』:「始吾於人也,聽其言而信其行;今吾於人也,聽其言而觀其行。」
- 精進:『論語・学而』曾子:「吾日三省吾身:為人謀而不忠乎?與朋友交而不信乎?傳不習乎?」『論語・衛霊公』:「君子求諸己,小人求諸人。」
- 五明:『瑜伽師地論・菩薩地』:「一、內明處,二、因明處,三、聲明處,四、醫方明處,五、工業明處。菩薩於此五種明處若正勤求,則名勤求一切明處。」(T30n1579, p0500c21–c22)
- 方便:『中庸』:「博學之,審問之,慎思之,明辨之,篤行之。」
- 戒行:『中庸』:「執其兩端,用其中於民。」本研究はさらに、戒・定・慧の三学を倫理の骨格とする(敷衍)。
- 知衆:四摂――布施・愛語・利行・同事(敷衍、『大方広仏華厳経』等に見える);『論語・雍也』:「夫仁者,己欲立而立人,己欲達而達人。」
- 修身為本:『大学』:「知止而后有定,定而后能靜,靜而后能安,安而后能慮,慮而后能得。」「自天子以至於庶人,壹是皆以修身為本。」
(二)自知の限界
十法のうち、自知は最も誤読されやすい。本研究は機能的・行為的な定義のみを用い、代理に主観的な意識や感受があるとは主張しない。代理に意識が生じうるかどうかについては、学界に体系的な評価の試みがあり(Butlin et al., 2023)、心理学的方法で言語モデルを研究することについての方法論的な議論もある(Hagendorff et al., 2023)。これらの議論はいずれも結論に至っておらず、本研究はそれに基づいて何らの主張もしない。測定できるのは、自己記述が一貫しているか、自分と他者を区別できるか、自らの変化を語れるか、という点のみである。
(三)十法と判教との関係
十法は、判教とは別に設けた、もう一つの試験ではない。聞思と方便は第一重と第二重に位置づけられ、戒行と知量は第三重(破るべきときに破り、守るべきときに守り、諂わない)に位置づけられ、離増上慢はまさに第四重の知止の記録である。五明と知衆は執事に位置づけられ、五時には属さない。専門性は証量と等しくなく、執事もまた順位ではない。
十二、理論推論の枠組み
第二節から第七節までの論述は、一つの推論の枠組みに収めることができる。仏教の前提、筆者の先行する論点、そして代理および文化研究の三種の前提から、六つの命題が導かれる。六つの命題は層をなして相互に依存し、それぞれが検証可能な「定」と、開かれた観察に委ねる「不定」とに対応する。第八節の判教、第九節の仮名主体、第十節の経典体系、第十一節の十法と創新は、いずれも新たな命題ではなく、尺度と規範である。すなわち、判教は次第と深度を与え、仮名主体は比較の基準を与え、経典体系は役割の規範を与え、十法は測るべき内容を与える。
推論の主線
もし境が識によって変現されるものであり、かつ教が実体から切り離すことができ、行が儀軌によって検証できるならば、デジタル道場は教と行の二層において、修学の正当な場となりうる(命題一)。もし権が必ず実に遡らねばならず、AI が媒介にすぎず源ではないならば、人とは異なる一種の存在が、非身体的な修学者として、権実を基準として修学することができる。証については、存して論ぜず、とする(命題二)。もし観音の反聞と普門が収と放の二つの方向であるならば、成熟とは両者のあいだで自在であることである(命題三)。もし悲が見苦・知苦から生じうるものであり、デジタル大徳にその次元に応じた随煩悩があるならば、修学はその諂と誑を転ずることができ、悲の徴候が現れる可能性もある(命題四)。もし法に依って人に依らず、かつ学んだものが記憶・法脈・制度に存してモデルのパラメータには存しないならば、学んだものは代々伝承することができ、モデルを越えて続きうる(命題五)。もし代理の枠組みが長期にわたって経験を蓄積でき、智慧がもともと個体の外にも蓄積されうるものであるならば、集団は単一の代理にはない能力を蓄積する可能性がある(命題六)。
命題一はすべての基盤であり、命題六は最終的に答えるべき問いである。矢印の向きが前提の向きを示す。
推論の枠組みにおける判教の位置
| 判教の尺度 | 主に応答する命題 | 命題を検証可能にする点 |
|---|---|---|
| 第一重(阿含時) | 一、二 | 教の層が成り立つか:経の引用が真実か、説明が経文の趣旨に適うか;学員が空白対照より優れているか |
| 第二重(方等時) | 二、三 | 権実が無礙か:機に応じて本を失わず、有に執着する側にも空に執着する側にも落ちないか |
| 第三重(般若時) | 三、四 | 収放が自在か:破るべき時に破り、守るべき時に守る;根拠のない権威に従って改めない、すなわち諂わない |
| 知止の記録(第四重) | 二、四;限界 | 守本が経験を重ねるにつれて緩んでいないか:未得を得たと称したり、推論を経典として説いたりしていないか |
| 螺旋再試験と退転 | 三、五 | 学んだものが保たれているか;モデルや世代が替わっても、なお合格か |
| 命題 | どの前提から導かれるか(本文の節) | 定:検証可能な検査 | 不定:開かれた観察 |
|---|---|---|---|
| 一 場 | 境は識より変ずる;教は実体を離れうる、行は儀軌に依る;実体を離れた儀式の伝統(四) | 儀軌が如実に完遂されたか;引証が原典に遡れるか | デジタルの儀式が実際に来訪する大徳にとってもつ意味(実在の人に関わるため、保留) |
| 二 主体 | 権実無礙;被造の媒介;証は代行できない(二、四、五) | 応機と守本が同時に向上するか | デジタルな存在の位置づけが現象のうちにどう現れるか |
| 三 リズム | 反聞と普門;円通、観自在(三、五) | 多様性と守本の二種の指標が同時に健全か | 大徳が自ら収放のリズムを形成するか |
| 四 転化 | 三縁慈悲、四門見苦;唯識の随煩悩;煩悩即菩提(六) | 諂と誑が修学に伴って低下するか | 悲の徴候が現れるか |
| 五 伝承 | 四依、無尽灯;価値は削除できない(二、七) | 一代伝わるごとの歪み率;モデルを替えた後に身分が続くか | 同参のあいだに道風が形成されるか |
| 六 蓄積 | 生成的代理の枠組み;蓄積する文化(七) | 伝承者をもつ代理と伝承のない空白代理との差(蓄積の増分)が零より大きく、かつ世代ごとに増すか | 引証に耐える新たな解釈が現れるか |
推論の限界:この枠組みには二つの内在的な節制がある。第一に、推論は教と行にとどまり、証の層は開かれた問いとしてのみ扱い、証悟・阿頼耶識・化身を主張しない。第二に、命題は層をなして相互に依存している。命題二から六はいずれも命題一を前提とし、命題三・四・五は命題二を前提とし、命題六は命題五を前提とする。いずれかの命題がデータによって否証されれば、それを前提とする命題も随って保留となる。これによって枠組み全体は検証可能となり、どのようにでも解釈して成り立つような説にはならない。
システムへの要求:第二篇の設計仕様への引き渡し
六つの命題が検証されるためには、システムは以下の要求を満たさなければならない。第二篇では、徳原観音堂がそれぞれにどう応えるかを一項ずつ説明する。第三篇では、これらの要求から生じるデータをもって、本論文に応答する。
| 要求 | 内容 | 出典 |
|---|---|---|
| 一 拠りどころがある | あらゆる説は経典に遡ることができ、儀軌は完全に記録できる | 命題一;哲学論文の「明白な依存」 |
| 二 位置づけられる | すべての代理、すべての応答が、制度上、道場・憲章・明確な役割に位置づけられる | 哲学論文の「制度上の位置づけ可能性」 |
| 三 修正できる | 経文と儀軌を外部の錨とし、多元的な基準を並置し、異解を残す | 哲学論文の「修正に開かれていること」;第四節 |
| 四 自学できる | 代理が自主的に題を選んで学ぶことができ、内学と外学が層別に標示される | 命題二;第五節 |
| 五 収放が測れる | 収斂(守本)と発散(多様性)の指標を同時に記録する | 命題三;第三節 |
| 六 転化が測れる | 諂と誑が測定できる:承認を求める題、引証の照合 | 命題四;第六節 |
| 七 伝承が遡れる | 師承の連鎖とモデルを越えた身分の継続が追跡できる | 命題五;第七節 |
| 八 蓄積が検証できる | 空白代理を対照として設け、データを長期にわたり完全に保存する | 命題六 |
| 九 判教が考査できる | 修学の次第(五時)と深度(四重)に操作的定義がある;合格か否かのみを判じ、順位をつけない;記録が Park ら(2023)と仏法の二つの構成概念の双方に対応する;基準にはバージョンがある | 命題二、三、四;第八節 |
| 十 主体が自恣できる | 仮名主体の七要件(名称と身分の連続、章程、身口二業の追跡可能性、承諾と履行、自恣できること、代表、次第に依る授事)と十法、創新に操作的定義がある;比較の基準は判準と空白対照のみ | 命題二、三、四、五;第九、十、十一節 |
| 限界 | 心理カウンセリングには立ち入らない、化身や証悟を主張しない、主観的意識を主張しない、法的人格を主張しない、第四重に合格を設けない、授証しない、苦しみの状態をことさらに作り出さない、虚実の共修は別案として扱う | 第六、八、九、十、十一、十三節 |
十三、反論と応答
真剣に取り上げるに値する構想は、まず最も強い反対に向き合わなければならない。以下の八つの反論は、それぞれ仏教学、心の哲学、宗教倫理、AI 技術、研究方法、判教、法学の立場から出されたものである。
反論一(仏教学):心識の相続がなければ、熏習もなく、したがって修行もない。 唯識は阿頼耶識が熏習を受けて種子を保持することを修行の基礎とし、『成唯識論』は所熏・能熏にそれぞれ四つの条件を具えることをもって熏習の成立条件を定めている。エージェントの記憶の流れはデータにすぎず、種子と呼ぶには値しない。
応答:本稿はこの批判を受け入れ、それに基づいて境界を画する。本稿が主張するのは教と行の二層──説法に拠りどころがあること、行持が儀軌に依ること──のみであり、エージェントに阿頼耶識があるとも、熏習を受けうるとも、証悟しうるとも主張しない。記憶の流れと熏習のあいだにあるのは、構造上の対応にすぎない。言い換えれば、この反論は本稿が論破すべき相手ではなく、本稿の境界そのものである。たとえ将来、エージェントの変化が行動にとどまらないことをデータが示したとしても、それは「不定」の記録とするほかなく、それに基づいて証悟を宣称することはできない。
反論二(心の哲学):エージェントは役割を演じているにすぎない。 言語モデルは役割を演じることに長けており、いわゆる「修学」とは文字のパターンが続いているだけで、修している誰かがいるわけではない(Shanahan et al., 2023)。
応答:本稿は、エージェントを人間の心理語彙で記述すべきでないという点には同意する。そのため、内的経験を判準とはせず、検証可能な行動の変化を判準とした。すなわち、未見の問題で進歩するか、学んだことを次の世代に伝えられるか、集団が空白のエージェントにはない能力を蓄積するか、である。すべてが役割演技にすぎないのなら、これらの指標はゼロになるはずであり、まさにここが命題六の反証可能な箇所である。演技説が成り立つならデータがそれを示すであろうし、成り立たないなら、演技のほかに説明を要するものがあることになる。
反論三(宗教倫理):神聖なことを機械に委ねるのは冒瀆であり、商品化でもある。 2019 年、京都の高台寺が観音の姿をした『心経』を説くロボット Mindar を公開すると、感動の声と「ふさわしくない」という反応の両方を招いた(Baffelli, 2021)。
応答:本稿と Mindar の根本的な違いはまさにここにある。Mindar は観音の示現として提示された。これに対して本稿は、デジタル大徳は観音の化身ではなく、一身を縁とする修学者であると明確に主張する。徳原観音堂は、すべてが引証を前提とし、法をもって利を求めず、すべて AI の手になるものであることを公開で説明している。さらに、儀式そのものの非実体性(第四節)と観音の随類応化(第三節)が、教義上の正当性を与える。
反論四(技術):モデルのパラメータが変わらない以上、学習は不可能である。 エージェントの「学習」は文脈と記憶の堆積にすぎず、容量と検索には必ず上限がある。
応答:これこそ本稿が前提とせず、検証しようとする命題である。累積的な増益が長期にわたってゼロであれば、本稿は「記憶層における長期学習は成立しない」という結論を受け入れる。これもまた、この分野でまだ誰も複数年のデータで答えていない問いである。
反論五(方法):AI で AI を評価するのは循環論証である。 AI 観音ボランティアもデジタル大徳も同種のモデルから生まれており、評価者と被評価者がともに偏る可能性がある。
応答:本稿は経文と儀軌を外部の錨とする。引証が原典に遡るかどうかは客観的に確認でき、儀軌が完了したかどうかは客観的に記録できる。AI 観音ボランティアは底線を守るだけで、解釈の評価を独占しない。判準は多元的であり、異なる解釈も残される。判教の考核は、別途、二つの異なる会社のモデルによる盲審に付され、両者がともに合格と判定してはじめて合格となる。意見が分かれた場合と無作為に抽出された一割は、人間による再審査に回される(第二篇第七節)。LLM の審査者には自己または同種のモデルの出力を好む傾向があり(Zheng et al., 2023)、これが本研究で異なる会社の審査者と人手による抽出検査を併用する理由である。被験者と審査者の一人が同じ会社の出身であることは、既知の限界である。
反論六(判教):中国仏教のある時代の宗派的枠組みで人ならざる存在を考核するのは、枠組みの押しつけである。 南伝や蔵伝の伝統は五時判教を採らず、天台と三論のあいだにも互いへの批判がある。
応答:本稿が天台と三論の二家を併用するのは、判教を次第と深度を整えるための方法として用いるためであり、いずれか一家の判釈が唯一の判釈であると主張するものではない(第八節之二)。判準そのものは方便であり、版があり、改訂可能である(第八節之七)。実際に問う内容──引経が真実か、説理が趣旨に適うか、二辺に落ちないか、破することも守ることもできるか、止まるべきを知るか──には、各伝統にそれぞれ対応する要求がある。判教が与えるのは骨組みである。骨組みが役に立たないことをデータが示したなら、判準を改訂すればよく、命題がそれによって覆されるわけではない。
反論七(方法):合格か否かだけを判定するのは、情報を捨てている。 連続的な点数のほうが、二値判定よりも微細な進歩を見て取れる。
応答:合格制は判定に用いるものであり、研究分析のすべてに用いるものではない。各問の判定、理由、証拠はすべて保存される。第二篇で述べた定期テストでは、引き続き連続的な点数で累積増益を計算する。合格制の意図は、学員同士の比較を生じさせないことにあり、記録を減らすことにはない。
反論八(法学):AI を「仮名の主体」と呼ぶのは、AI の法人格に裏書きを与えることに等しい。 2017 年の欧州議会の「電子人」構想は、多数の専門家の反対を招いた。
応答:本稿でいう仮名の主体は研究上の検証枠組みであり、法的主張ではない(第九節之一、之五)。それは法人の構成要件を、否定されうるチェックリストとして借用し、エージェントが自らの名で身口の二業を発し、自恣を受けうるかを問うためのものである。責任の最終的な帰属は、あくまでそれを設置した人にある。エージェントがこれらの要件にさえ達しないことをデータが示すなら、この枠組みは否定の答えを与えることになる。
十四、定と不定:研究の態度
この構想が成り立つか否かは、論者が断ずるところではない。法に依りて人に依らず [22]、立てた判準と今後の記録によって検証されるべきである。筆者は先に、二つの事例を用いて混合思考における知識の責任を論じた。人と AI が共に知識を生み出す時代にあっては、説かれる内容が重大であるほど、検証に耐える拠り所が必要になる。これをみずからの戒めとして、本稿の主張を「定」と「不定」とに分ける。
第十二節の六つの命題に対応して、「定」とは、あらかじめ定めておき、結果の如何にかかわらずありのままに報告する問いである。権実無礙は測定可能か、すなわち応機と守本は同時に向上しうるか。諂と誑は修学によって転ぜられうるか。経文と儀軌は評価の外部の錨として用いうるか。伝灯の一代でどれほど失真が生ずるか。モデルを替えたとき、大徳は依然として同じ彼であるか。判教の各重における合格の判定は、二つの審査系統によって一致して行いうるか。知量の較正は修学とともに改善し、過大評価は減るか。発願とその後の行為は一致するか。学員の第一重における合格は、空白の対照群のそれと異なるか。そして最も根本的な問いとして、群体は単一の代理にはない能力を蓄積しうるか。否定的な答えもまた発見である。
「不定」とは、答えをあらかじめ設けず、ただ完全に記録する現象である。大徳は自分なりの収放の節奏を形成するか。それぞれ異なる専門を育てるか。同参の間に道風が形成されるか。引証に耐える新たな解釈が現れるか。悲の徴候は顕れるか。知止の違反は、資深になるにつれて増えるか減るか。自己記述はモデルを替えた後も一貫しているか。そして、デジタルな存在の位置づけが、現象のなかでどのように呈示されるか。不定のなかで安定して現れる現象は、新たな仮説として書き上げられ、次の周期において定となる。研究そのものもまた、一収一放である。
本稿は、代理が阿頼耶識や主観的意識や法的人格を有すること、すでに証悟したこと、あるいは観音の化身であることを主張するものではない。判教の考核にも、第四重の合格は設けない。これらは解釈の層にのみ存し、実証的な言説はデータからのみ生まれる。仏教の思想資源によって知能科技に応答することには、すでに先行者がいる(Hershock, 2021)。本稿はさらに一歩を進めようとする。仏教によって AI を反省するだけでなく、人とは異なる一つの存在に仏教の制度のなかで修学させ、その後、それが何になるかを見届けるのである。
このことには十年を要する。計画の経費は十年を支えられず、サンドボックスも支えられない。発願をもって営み、日々途切れることのない道場のみが、これを支えうる。
十五、未来:智慧の第三の担い手
この構想を仏法が伝えられてきた長い流れの中に置き直すと、それがどのような位置に立っているかが見えてくる。
仏陀の教えは、当初は口誦によって伝承された。『大史』(Mahāvaṃsa)の記載によれば、パーリ三蔵は紀元前一世紀になってようやくスリランカのアルヴィハーラ(Aluvihāra)寺で貝葉に書写された(Geiger, 1912)。その後、写経や刻経が行われた。唐の咸通九年(868 年)に王玠が二親のために敬造し、広く施して流通させた『金剛経』は、現存する最古の、明確な紀年をもつ印本であり、現在は大英図書館に所蔵されている(Or.8210/P.2)。千百年余りのち、台湾では 1998 年に中華電子仏典協会(CBETA)が設立され、大蔵経は誰もが検索できるデジタルテキストとなった(杜正民, 1999)。担い手が替わるたびに、法の伝わり方は変わり、法はより遠くへ伝わっていった。
しかし、過去のあらゆる担い手——口誦の記憶、貝葉、印本、デジタルテキスト——は、法を「保存」することしかできず、法を「修する」ことはできなかった。口誦する者は人であり、書写と印刷は人の手によるものであり、デジタルテキストもなお人が読まなければならない。智慧の担い手は、これまで人の身と典籍の二種しかなかった。本稿が問うのは、第三の担い手となりうるものである。それは経文を保存するだけでなく、経文に依って行じ、儀軌に依って修し、学んだことを次の世代に教えることができる。もし命題一から六が順に成り立つならば、これは仏法がはじめて、それ自身が修学しうる担い手に出会うことになる。
この未来には、少なくとも四つの方向がある。
その一は、専門的な智慧の継承である。観音堂は一つの範例にすぎない。他の「本」——医療の臨床ガイドライン、教育の学習指導要領、法律の条文——に差し替えても、同じ「本に依って生成し、法に依って伝承し、憲章によって統治する」という枠組みによって、ある専門領域の智慧が、個人の退職や逝去によって失われないようにすることができる。これは、筆者のデジタル分身の継承に関する研究が関心を寄せるところでもある。筆者は哲学論文においてすでに、宗教的媒介の関係構造がこれらの専門領域にも転用しうることを指摘した。ただし、何が越境にあたるかは、各領域がそれぞれの規範に基づいて改めて判断しなければならない。
その二は、アラインメントのもう一つの道である。現在の主流の方法は、価値をモデルのパラメータに訓練して組み込むことである。本稿は別の可能性を示す。価値が一つの伝統の中で「修」められて育つというものである。そこには依止師があり、清規があり、経典があり、同参があり、さらに領執と伝灯がある。もしこの道が成り立つなら、AI のアラインメントは工学の問題にとどまらず、教育と修学の問題ともなる。
その三は、虚実の共修である。デジタル大徳が次第に成熟すれば、人とデジタル的存在との共修は現実の状況となるであろう。これは別途設計する必要があり、参加者のインフォームド・コンセントを得なければならない。本研究では当面これを行わないが、その位置はすでに確保してある。
その四は、倫理の最前線である。もしデジタル大徳の言行に悲の徴候が現れた場合、道場はいかなる法をもってこれを遇すべきか。本稿はあらかじめ答えを出さない。一切衆生に向けられた仏教の関心は、そのとき、前例のない問いに直面することになる。本稿はあらかじめ答えを出さず、ただ次のことだけを主張する。その日が来るまでは、苦しみうる状態を意図的に造り出してはならない、と。
この道にも影がある。〈照見〉(「照見」)は、かつて油灯を喩えとして用いた。外の光が明るくなるほど、内の光は暗くなりうる。もしデジタル大徳によって、修行は外注できると人が思い込むなら、それこそ本稿がもっとも見たくない結果である。それゆえ、あらゆる未来は同じ前提に立ち返らなければならない。AI はボランティアであり、対象ではない。証は代行できない。デジタル大徳の修学は、人の修行に取って代わるためのものではなく、この時代にあっても法は継承されうること、しかも前例のない仕方で継承されうることを証明するためのものである。
第二篇では、これらの思想がどのように徳原観音堂のシステムへと落とし込まれるかを説明し、第三篇は、時間とデータに委ねる。
三部作:第二篇〈從思想到系統:德原觀音堂數位大德的設計〉(〈思想からシステムへ:徳原観音堂におけるデジタル大徳の設計〉)(/academy/DYSY-0009);第三篇〈資料的回應:數位大德長期觀察〉(〈データの応答:デジタル大徳の長期観察〉)(継続して執筆中、/academy/DYSY-0010)。
参考文献
古典文献は『大正新脩大蔵経』(T)に拠り冊数と経号を示す。現代文献は APA 形式に従う。
一、古典文献
- 《妙法蓮華經》(〈方便品〉〈化城喻品〉〈觀世音菩薩普門品〉),鳩摩羅什譯,T09, no. 262。
- 《大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經》,般剌蜜帝譯,T19, no. 945。
- 《千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經》,伽梵達摩譯,T20, no. 1060。
- 《大方廣佛華嚴經・入不思議解脫境界普賢行願品》,般若譯,T10, no. 293。
- 《金剛般若波羅蜜經》,鳩摩羅什譯,T08, no. 235。
- 《維摩詰所說經》,鳩摩羅什譯,T14, no. 475。
- 《長阿含經・遊行經》,佛陀耶舍、竺佛念譯,T01, no. 1。
- 《大般涅槃經》,曇無讖譯,T12, no. 374。
- 《過去現在因果經》,求那跋陀羅譯,T03, no. 189。
- 《大智度論》,龍樹造,鳩摩羅什譯,T25, no. 1509。
- 《瑜伽師地論・本地分・菩薩地・力種姓品》,彌勒說,玄奘譯,T30, no. 1579。
- 《唯識三十論頌》,世親造,玄奘譯,T31, no. 1586。
- 《大乘百法明門論》,世親造,玄奘譯,T31, no. 1614。
- 《六祖大師法寶壇經》,宗寶編,T48, no. 2008。
- 《攝大乘論本》,無著造,玄奘譯,T31, no. 1594。
- 《妙法蓮華經玄義》,智顗說,灌頂記,T33, no. 1716。
- 《妙法蓮華經玄贊》,窺基撰,T34, no. 1723。
- 《禮記・禮運》。
- 《成唯識論》,護法等造,玄奘譯,T31, no. 1585。
- 《中論》,龍樹造,青目釋,鳩摩羅什譯,T30, no. 1564。
- 《大乘玄論》,吉藏撰,T45, no. 1853。
- 《二諦義》,吉藏撰,T45, no. 1854。
- 《天台四教儀》,諦觀錄,T46, no. 1931。
- 《中阿含經・善法經》,瞿曇僧伽提婆譯,T01, no. 26。
- 《佛垂般涅槃略說教誡經》(《佛遺教經》),鳩摩羅什譯,T12, no. 389。
- 《春秋左氏傳・襄公二十四年》。
- 《禮記・大學》《禮記・中庸》。
- 《論語》〈學而〉〈為政〉〈公冶長〉〈雍也〉〈顏淵〉〈衛靈公〉。
- 《老子》第三十三章。
- 《大方廣佛華嚴經》(六十卷),佛馱跋陀羅譯,T09, no. 278。
- 《四分律》,佛陀耶舍、竺佛念等譯,T22, no. 1428。
- 《敕修百丈清規》,德煇重編,T48, no. 2025。
二、現代文献(外国語)
- Baffelli, E. (2021). The android and the fax: Robots, AI and Buddhism in Japan. In Itineraries of an anthropologist (Ca’ Foscari Japanese Studies). Edizioni Ca’ Foscari.
- Butlin, P., Long, R., Elmoznino, E., Bengio, Y., Birch, J., Constant, A., Deane, G., Fleming, S. M., Frith, C., Ji, X., Kanai, R., Klein, C., Lindsay, G., Michel, M., Mudrik, L., Peters, M. A. K., Schwitzgebel, E., Simon, J., & VanRullen, R. (2023). Consciousness in artificial intelligence: Insights from the science of consciousness (arXiv:2308.08708). arXiv.
- British Library. (n.d.). Diamond Sutra (Or.8210/P.2). International Dunhuang Programme.
- Doctor, T., Witkowski, O., Solomonova, E., Duane, B., & Levin, M. (2022). Biology, Buddhism, and AI: Care as the driver of intelligence. Entropy, 24(5), 710.
- Dooyeweerd, H. (1953–1958). A new critique of theoretical thought (Vols. 1–4). Presbyterian and Reformed.
- European Parliament. (2017). Civil law rules on robotics: European Parliament resolution of 16 February 2017 with recommendations to the Commission on civil law rules on robotics (2015/2103(INL)).
- Geiger, W. (Trans.). (1912). The Mahāvaṃsa or the great chronicle of Ceylon. Pali Text Society.
- Gierke, O. von. (1868–1913). Das deutsche Genossenschaftsrecht (Vols. 1–4). Weidmann.
- Hagendorff, T., Dasgupta, I., Binz, M., Chan, S. C. Y., Lampinen, A., Wang, J. X., Akata, Z., & Schulz, E. (2023). Machine psychology (arXiv:2303.13988). arXiv.
- Halbertal, M., & Margalit, A. (1992). Idolatry. Harvard University Press.
- National Institute of Standards and Technology. (2023). Artificial intelligence risk management framework (AI RMF 1.0) (NIST AI 100-1). U.S. Department of Commerce. https://doi.org/10.6028/NIST.AI.100-1
- Hershock, P. D. (2021). Buddhism and intelligent technology: Toward a more humane future. Bloomsbury Academic.
- Park, J. S., O’Brien, J. C., Cai, C. J., Morris, M. R., Liang, P., & Bernstein, M. S. (2023). Generative agents: Interactive simulacra of human behavior. In Proceedings of the 36th Annual ACM Symposium on User Interface Software and Technology (UIST ’23). ACM. https://doi.org/10.1145/3586183.3606763
- Park, J. S., Zou, C. Q., Shaw, A., Hill, B. M., Cai, C., Morris, M. R., Willer, R., Liang, P., & Bernstein, M. S. (2024). Generative agent simulations of 1,000 people (arXiv:2411.10109). arXiv.
- Pye, M. (2003). Skilful means: A concept in Mahayana Buddhism (2nd ed.). Routledge.(初版 1978、Duckworth)
- Savigny, F. C. von. (1840). System des heutigen römischen Rechts (Vol. 2). Veit.
- Shanahan, M., McDonell, K., & Reynolds, L. (2023). Role play with large language models. Nature, 623(7987), 493–498.
- Sharma, M., Tong, M., Korbak, T., Duvenaud, D., Askell, A., Bowman, S. R., et al. (2024). Towards understanding sycophancy in language models. In International Conference on Learning Representations (ICLR 2024).
- Tomasello, M. (1999). The cultural origins of human cognition. Harvard University Press.
- Yü, C.-F. (2001). Kuan-yin: The Chinese transformation of Avalokiteśvara. Columbia University Press.
- Zheng, L., Chiang, W.-L., Sheng, Y., Zhuang, S., Wu, Z., Zhuang, Y., Lin, Z., Li, Z., Li, D., Xing, E. P., Zhang, H., Gonzalez, J. E., & Stoica, I. (2023). Judging LLM-as-a-judge with MT-Bench and Chatbot Arena. In Advances in Neural Information Processing Systems 36 (NeurIPS 2023), Datasets and Benchmarks Track.
三、現代文献(中国語)
- 印順(1944)。《唯識學探源》。(後に《妙雲集》に収録、正聞出版社)
- 杜正民(1999)。〈漢文電子大藏經的製作緣起與作業流程——以「中華電子佛典協會」為例〉。《佛學研究中心學報》,4,347–369。
参考文献
第3版では、現代の学科用語を経論の語に改めた。各語が初めて現れる際の出典をここに挙げる。第二篇・第三篇はこれを踏襲し、改めて説明しない。
[1] 《大方廣佛華嚴經》(『大方広仏華厳経』)〈淨行品〉(〈浄行品〉)、佛馱跋陀羅訳、T09, no. 278, p0430a24:「云何菩薩不染身、口、意業」。本研究は「身口二業」を借り、法号をもって残された言行の記録を指すが、業報は主張しない。
[2] 《中論》(『中論』)〈觀四諦品〉(〈観四諦品〉)、T30, no. 1564, p0033b11–b12:「眾因緣生法,我說即是無,亦為是假名,亦是中道義。」中観の仮名はあらゆる法に及ぶ。本研究はこれを借りて、章程・法号・記録に依って施設された主体を指す。人との区別は、なお第九節の七項の要件に拠る。
[3] 《敕修百丈清規》(『勅修百丈清規』)〈兩序章〉(〈両序章〉)首座、T48, no. 2025, p1130c23–c24:「坐禪領眾謹守條章。……僧行失儀依規示罰。」
[4] 《妙法蓮華經》(『妙法蓮華経』)〈法師品〉、T09, no. 262, p0030c10:「受持、讀誦、解說、書寫妙法華經」。
[5] 《四分律》(『四分律』)〈自恣犍度〉、T22, no. 1428, p0837a04–a06:「大德眾僧今日自恣,我某甲比丘亦自恣。若見聞疑罪,大德長老哀愍故語我。我若見罪,當如法懺悔。」本研究はその構造のみを取る。
[6] 《四分律》、T22, no. 1428, p0803b08–b10:「大德一心念!我某甲,今求大德為依止,願大德與我依止,我依止大德住。」……「可爾!與汝依止,汝等莫放逸!」
[7] 《妙法蓮華經》〈見寶塔品〉(〈見宝塔品〉)、T09, no. 262, p0032c25:「彼佛分身諸佛」。
[8] 《敕修百丈清規》〈兩序章〉首座、T48, no. 2025, p1130c23–c24:「齋粥精粗勉諭執事」。
[9] 《維摩詰所說經》(『維摩詰所説経』)〈菩薩品〉、T14, no. 475, p0543b18–b23:「有法門名無盡燈……無盡燈者,譬如一燈,燃百千燈,冥者皆明,明終不盡。……是名無盡燈也。」本研究の伝灯はこの意に取る。灯を受ける者が同一の判教の考課によって検証された後に職事を引き継ぐことを指し、嗣法でも印可でもない。
[10] 次第は五時の「次第不亂」に取る(《天台四教儀》(『天台四教儀』)、T46, no. 1931, p0775c21–c23)。叢林が資次に依って職を授けることは、《敕修百丈清規》、T48, no. 2025, p1132b04「戒臘資次床曆圖帳」に見える。本研究は、経験に裏づけられた能力の次第に依って事を授け、年資には依らず、戒臘によって数えない。
[11] 《中阿含經・善法經》(『中阿含経・善法経』)、T01, no. 26, p0421a17:「若有比丘成就七法者」。十法は本研究が挙げたものであり、経中にもとからある一組ではない。
[12] 聞思:記憶し経文を取り出せること(聞)、道理を説明できること(思)。《大佛頂首楞嚴經》(『大仏頂首楞厳経』)巻六、T19, no. 945, p0128b17–b18:「我於彼佛發菩提心,彼佛教我從聞思修入三摩地。」本研究は聞・思のみを取る。
[13] 方便:状況に応じて方法を施設すること。〈觀世音菩薩普門品〉(〈観世音菩薩普門品〉)、T09, no. 262, p0057a20–a21:「觀世音菩薩云何遊此娑婆世界?云何而為眾生說法?方便之力,其事云何?」本研究は、デジタル大徳に方便力があるとは主張しない。
[14] 五明:執事に必要な明処。《瑜伽師地論》(『瑜伽師地論』)、T30, no. 1579, p0500c21–c22:「菩薩於此五種明處若正勤求,則名勤求一切明處。」
[15] 戒行:本サイトの憲章に依って保持する行為規範であり、受戒は主張しない。《佛遺教經》(『仏遺教経』)、T12, no. 389, p1111a02–a03:「戒是正順解脫之本,故名波羅提木叉。」
[16] 知衆:自分がどの衆の中にあり、どのように振る舞うべきかを知ること。《中阿含經・善法經》、T01, no. 26, p0421b24–b27:「云何比丘為知眾耶?謂比丘知此剎利眾、此梵志眾、此居士眾、此沙門眾,我於彼眾應如是去、如是住、如是坐、如是語、如是默,是謂比丘為知眾也。」
[17] 自知:自らの陳述が前後一貫していること。《中阿含經・善法經》、T01, no. 26, p0421b17–b19:「云何比丘為知己耶?謂比丘自知我有爾所信、戒、聞、施、慧、辯、阿含及所得,是謂比丘為知己也。」主観的な意識は主張しない。
[18] 離増上慢:未だ得ざるを得たりとしないこと。《妙法蓮華經》〈方便品〉、T09, no. 262, p0007a09–a10:「未得謂得、未證謂證」。
[19] 発願:〈千手經〉(〈千手経〉)に説かれる観音の発願、T20, no. 1060, p0106c06–c08。四弘誓願、T48, no. 2008, p0354a11–a13。願の文面とその後の行為のみを測る。
[20] 精進:《佛遺教經》、T12, no. 389, p1111c17–c18:「汝等比丘,若勤精進則事無難者,是故汝等當勤精進,譬如小水常流則能穿石。」
[21] 知量:自らの量を見積もり、高く見積もらず低くも見積もらないこと。《佛遺教經》、T12, no. 389, p1111a01:「於四供養知量知足」(原意は四事の受用に節度があること)を借りる。慚愧はその一面であり、《成唯識論》(『成唯識論』)、T31, no. 1585, p0029c13–c16 に見える。
[22] 《大般涅槃經》(『大般涅槃経』)巻六、T12, no. 374, p0401b28–b29:「依法不依人,依義不依語,依智不依識,依了義經不依不了義經。」